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status summary

舞台表(改)

(続き)

ええと曲自体について語ることは特にありませんが、一つお詫びと言いますか、どうやら最後の演目のバランス調整がかなり大幅にずれていたようで、大変に失礼いたしました。ちょっとお粗末だったなー。これはまったく私のミスと申しますか、ギリギリまで修正に時間をかけるのを優先しすぎて、通しでのリハを怠ったのが裏目に出たという。うん自業自得ですね。

まあバランスを正した程度でヘッポコは覆らないのでどうでもいいっちゃいいんですが。


さて r17 ですが、音価表記の選択論理に一つ考慮漏れが発覚しまして、実際に特定のパターンにおいて文字数的に損な選択をする場合があったので、その修正となります。もう少し詳しく言うと「文字数に差が出る見込みなのに評価スコアが同じになる」という状態だったので、実際に損な選択をしていたか否かは前後の文脈に依存します。ただしこの修正によって稀に逆効果となる場合もありますので、あまりにも酷い事例があるようでしたらお知らせください。

もう一点、マルチプルノートオンに対する動作の変更については・・・そもそも r13 以来この領域での動作は「未定義」であって、未定義のものを未定義に変更するというのは更新項目として有効なのかどうか疑わしいんですが、まあともかく r13 の時点で想定した通りの「未定義」になっていなかったので、これを変更したと、そういう話です。これで変換結果が変わるようなら間違いなく元データにマルチプルノートオンが含まれているわけで、それは世間的にはたぶんよろしくない状態とみなされるはずなので、どちらかといえば元データをチェックし直した方がいいんじゃないかと思います。表向き。



121212追記

曲がりなりにも芸術の範疇にある創作である以上、作者は作品の内容で語るべきであって、訊ねられもしないうちに作品の外であーだこーだ言うのは野暮というものでありましょう。そういうわけなので、曲自体について語ることは当初に述べたとおり、断じて「特にありません」なのですが、それだけだと結局なんだったんだ的に意味不明な面もあるかと思うので、曲そのものについては触れずに背景事情だけつらつらと書いてみます。

一般論として言えば — 型を知って破るから型破りなのであって、型を知らないのはただの形無しです。これは私が言っているわけじゃなくて、歴代の偉人たちが色々に言い回しを変えて同じ事を言っているのです。無から型を造り出すような特殊能力を持った人間なんてのは歴史上ただの一人もいません。デタラメにぐにょぐにょ描いてもピカソにはならんのです。そして同様に「文法を正すことで損なわれる内容なんて無い」というのは作文の基本です。

もちろん、作文で扱う“言語”が明確な意識の上で情報伝達するという第一任務を負っているのに対し、作曲で扱う“音楽”には明確な意味なんてものは最初から存在しません。このため作曲においては、仮に文法 — と言うと違和感があるので作法と言い換えますが、ともかくそうした既存のレールから逸脱したとしても、「意味が通らなくなる」というような“実用上の問題”が生じる余地はありません。小説家が「意味さえ通れば文法なんか多少怪しくてもいいだろ」なんて主張したらまず間違いなく蹴飛ばされるのとは状況が違います。

ですから、「作曲作法は創作性を害してまで守るべきものでない」というのは、まず大抵の場面において真です。ある音楽を良しとするか悪しとするかは各個々人の感性によってのみ判断されるべきものであって、ある一つの作法に反しているからという理由で曲がダメになるなんてことは断じてありません。例えば「なんとなくヘンに聴こえる」という時に、そう感じてしまう理由を作法に定めれた禁則が教えてくれることはありますが、それは「禁則があるからヘンに聴こえる」ということではないのです。ここを取り違えてはいけません。

結局のところ作曲作法ってのは、「こうしておけばだいたいうまくいく」「こんなことをするとたいていうまくいかない」といったセオリーを集めたものです。それはクラシックの文脈とポップスの文脈では違っていますし、ジャズなりロックなりにはまた別の流儀があります。各地の民謡にもそれぞれのセオリー、それぞれの作法があります。流儀は一つではありませんし、また一つの流儀の中でさえ多くのルールは絶対的なものではありません。実際、既存の作法をあえて曲げることで著しくうまく行くことが発見されると、そうした「方言」には名前が付いて、新たなセオリーとして追加されてゆくのです。ですから、「これが正義だー」なんて言って一つの作法に縛られるのは、実に愚かしいことです。

しかしだからといって、全ての作法をまるで無視するというのも、同程度に愚かしいのではないかと、私は思うのです。既に確立されている作法は、どれもそれなりに長年の経験と研究に裏打ちされた、先人たちの叡智の結晶です。凡人がポッと思い付いた程度でひっくり返るほど役に立たない代物だとは、私には思えません。素人が既存の作法では収めきれないような、素晴らしく鞏固な創作性を発揮するなどという奇蹟を、私は信じません。

だいたいそもそも曲を創る側にせよ聴く側にせよ、頭の中には過去に耳にしてきた既存の楽曲の経験が否応なしに残っていて、それを意識していようといなかろうと脳はフルオートマチックにそうした記憶と比較対照することで音を解釈しているのです。これは人間の脳がそういう風にできているという動作機構上の制約であって、何か余程の重故障を抱えているのでもない限り何人たりとも逃れる術はない。むしろそうした様々な音がごちゃ混ぜになった坩堝がまず最初にあって、そこに自らの感性でバイアスをかけて“自分の音”を紡ぎ出すのが作曲なのだろうと思うのです。自己暗示か何かで特定の記憶を選択消去できるような超人でもない以上、我々はどうあがいても無知な赤子には戻れません。また我々は無知な赤子に聴かせる曲を書こうとしているのでも、あるいは非実在部族に伝わる架空の民謡を捏造しようとしているのでもないのです。そう前提をおいてみれば、この無意識的な“音楽的背景”を構成している要素を一旦意識の上に引っ張り上げ、既存の楽曲の音組織を組み立てている作曲作法を知ることは、むしろ当然に必要なことといえましょう。

私はこういう考え方をする人間ですので、今回の演目の用意にあたって、水面下では三ヶ月くらい空き時間の大半を投下して、付け焼き刃と知りつつも素人なりに基礎知識の習得と研究に充てていたのですが・・・勿論だからどうだなんてことはあるはずもなく、前々から自分で言っている通り、結局のところ私は何の音楽的素養も備えない凡人の素人に過ぎません。結果はいろいろとお察しください。

もっとも古来より「生兵法は怪我の元」と言い習わすとおり、中途半端に作曲作法の表面をなぞった程度で果たしてマシになっていたのかどうかには確かに疑問があります。たいていどんな教本を見ても「覚えただけでは無意味である、身に付くまで繰り返せ」とか書いてあるし。いえ無理です。覚えきることすらできていないのに、身になんか付いてるわけがありません。たとえば研究が一通り完成しないうちは、理解した範囲の偏りからなにがしかの不均衡を抱え込む的なことはたぶんあるのでしょうし、その意味で用意した演目がどこか歪なものであったことはまず間違いありません。しかしそれは単に研究と経験の不足が原因なのであって、そこで殊更に「小賢しく知恵を付けたせいで心が曇った」などという話にすることはないと思うのです。私はその程度には自分自身の感性をあてにしているし、あるいはそれがまるで見当違いで — つまり肝心の感性があっさり理論に飲まれて崩れる程度の代物であったなら、そんなもの後生大事にしまい込んでいてもどうせ何にもなりはしませんよ。

・・・と、ここまで言った上でぶっちゃけますと、私が今回イベントステージに枠を取るという暴挙に出た最大の動機は、この「私は何の音楽的素養も備えない凡人の素人に過ぎない」という事実を、必要十分に周知することにありました。そこに至るまでの心の軌跡をだらだら書き連ねるのは流石に控えておきますが、ともかく一連のついったーから二度に渡るTOPAZを経て、私の中でズルズルと引き摺ってきたナニカに対するケジメ・・・とでも言いますか。まあそんな風に表現すれば幾らか聞こえはいいですが、我ながら救い難くねじ曲がった自己満足ですな。であればこそ、“少し勉強すればきっとうまくできるよ”などというような甘い余地が残らないように、最初からそれなりに外堀を埋めて挑んだ、と・・・まあそういうような話です。

もちろん告知に書いていた表向きの意図に嘘偽りはありませんし、当日の口上で述べた技術デモという側面もまた嘘偽りではありません。ただそれらとは別に心に秘めた目的があったと、それだけのことです。そして私としては、たとえ真意が腐り果てていても、それら表向きの意図と差し引きすれば、全くの害悪というほど酷いイベントステージにはなるまい・・・と、そんな風に計算して出展したわけです。それで実際がどうであったかの判断は自分では付けられませんが、まあその後特段に苦情が殺到してきたわけでもないので、とりあえず掃いて捨てておけば無かったことにできる程度には収まっていたのかな、と思っておきます。とりあえず。

しかしこう平たく書いてしまうと・・・ええともうなんて言うか、何やってるんでしょうね私は。本当に。